「テモテへの手紙」は、パウロから弟子のテモテに宛てた手紙、という設定で書かれています。実際は、もう少し後の時代の教会の指導者から、後輩に送られたもののようです。教会が少しずつ組織化されていく一方で、迫害は激しくなり、いのちが惜しくて信仰を離れる者があったことが、少し後のところに書かれています。その厳しい状況の中で、まだ経験の浅い宣教者に対し、励ましのメッセージとして送られたのがこの手紙です。
「恵みの賜物」と訳されているのは「カリスマ」という言葉です。「恵み」を意味する「カリス」からきていて、もともと神さまから授かった特別な資質や能力のことでした。それは、手紙の筆者「が手を置いたことによって、受取人に与えられた」のです。手を置くことによって、相手がいつも聖霊に導かれるように祈り求めるのです。教会の務めを果たすために必要な賜物は、その職に任じられたとき、神さまから与えられました。それは代々、長老から長老へと受け継がれ、受け渡されてきたものです。それを大切に重んじなくてはならないのです。誰でも、洗礼を受けたときに聖霊を受けました。だから、ここに語られている勧めを、御自分にも与えられたものと受け取っていただきたいと思います。
「臆病」は、主に従うための心の強さが失われることです。ヨハネの黙示録21章には、「第二の死」に定められる人たちのリストがありますが、その最初が「臆病な者」だというのは興味深いことです。臆病に支配されると、人は委縮し、十分な働きができません。かつては賜物に燃えていたのに、何かの理由で衰えてしまった。どうすれば不安や恐れを克服することができるのか。彼が召されたのは、神さまの御心によってです。そうであれば、不安や恐れにとらわれる理由はない。それを思い起こせばよいのです。そうして再び賜物を炎とするように、筆者は励ましています。聖霊は洗礼のときに一度だけ注がれるものではありません。絶えず与えられている。それを正しく受け取れば、賜物はいつもいきいきと働くのです。
筆者は、自分は「主の囚人である」といい、ローマの当局や皇帝に捕らわれている、という言い方をしません。普通なら「囚人」の状態に留まりたくはないはずです。パウロはまた「主の奴隷」という言い方もしています。彼をとらえているのは主ですから、そこから抜け出す必要はないし、恥じるに値しないのです。
「恥じてはならない」という言葉が繰り返されます。「主を証しすること」「主の囚人であること」そして「苦しみを受けていること」を、「恥」とみなし、「恥じよ」と圧力をかける人たちがいた。けれども、そうではない、と主張するのです。パウロは「福音を恥としない」という趣旨のことを繰り返し述べます。「恥」は「誇り」と対になっています。パウロは「苦難をも誇りとする」「神を誇りと」する、とも語りました。この手紙が書かれた頃には迫害がありました。信仰も伝道も、いのちがけだった。幸い、そのような状況は過去のものになりました。でも、敵対的な、もしくは無理解な人たちの間で信仰を貫こうとすると、葛藤が生じます。無難に人間関係をやり過ごす方を選びたくなる。個人も、教会も、福音を恥じないとしても、苦しみはついてまわります。しかし、苦しみに耐え、それに打ち勝つ強さは、神さまが与えてくださいます。神さまが救いの御計画のために、わたしたちを選び、召し出し、用いてくださっているのです。
福音のために「苦しみを共にしてください」、という言い回しは2章にも出てきます。手紙が書かれた頃、福音のために共に働くことは、共に苦しむことでもありました。一緒に苦しんでください、というには、よほどの信頼関係がなければなりません。教会はともに苦しむことができる共同体なのです。苦しみにはいくつかの辛さがある。孤独であること、目的がわからないこと、先が見えないことです。しかし、苦しむとき、わたしたちはひとりではありません。伝道者は、いつでもどこでも同じ苦しみを苦しむ、といえます。その苦しみはキリストに知られている。そして、苦しみが無駄になることを心配する必要はありません。キリストは十字架と復活によって救いを実現し、死さえも滅ぼしてくださった。さらにこれは、終わりのない苦しみではありません。いつであるかはわからないにせよ、キリストが再び来られる。わたしたちの知っているものは永遠には続かないのです。大切なのは、自分が信じている御方を知っている、ということです。わたしたちは、神さまから委ねられたものを守り、次の人に手渡すつとめを与えられています。教会は過去2000年にわたって、それを果たしてきました。それは、人間の力や努力ではなく、聖霊の導きと守りによって、果たされるのです。聖霊の働きに信頼して、わたしたちは心を尽くして自分のつとめに励みたいと思います。
高根祐子